【コラム】もう一つの『太平洋戦争』
GWが始まりましたが、皆様どのようにお迎えでしょうか。
いつもと変わらない日常を送っている方、家族旅行を楽しんでいる方、奥様やお子様との時間を楽しんでいる方、趣味や勉学に打ち込んでいる方、そして人が休みの時もお仕事を頑張っている方、色々な人がいるでしょうね。
私といえば、若い頃は徹底した仕事人間でした。
しかし、上席が外資系出身だったこともあり、働くときはそれこそ24時間徹底的働き、逆に休む時は長期間の長期間の休暇を取る、という環境で働いてきました。
そんな訳で休むと時はちょっと長めに休みを取り、妻との共通の趣味である海外旅行に行くというのが、私のいつものお休みのパターンとなりました。
積もり積もって訪問した国の数は84カ国。
死ぬまでに100カ国というのは今の所の一応の目標です。
さて、そんな訳で、今回のGWも海外に来ていまして、目的地は南米のチリ。
今日滞在している チリの首都のサンティアゴは人口600万人。
予想以上に近代的な街並みが並ぶ南米きっての大都市でしたが、それもそのはず、かつてチリは南米ABC(アルゼンチン、ブラジル、チリ)の一角をなす3大強国の一国だったのです。
ということで、もう思いっきり企業ブログから外れてますが、今日はチリを強国の座に導いたある戦争、その名も『太平洋戦争』について書いてみましょうか。
☆ 硝石を巡る砂漠の戦い ☆
私たちは『太平洋戦争』というと先の日米戦争を思い浮かべる訳ですが、これはあくまでGHQがそう呼んだだけで、世界史的『太平洋戦争』と言えば、1879年から83年まで続いたチリとボリビア・ペルー連合軍の戦いを指します。
3国の国境にはアタカマ砂漠と呼ばれる不毛の大地が広がっています。
ところが19世紀の終わり頃、ここに肥料や火薬の材料として不可欠な硝石の大鉱床が発見されたことで、状況は一変。
この不毛の大地はたちまち三国の資源争奪の場と化したのです。
と言いたいとことですが、実態は当時内紛ばかりに明け暮れていたボリビア、ペルーと比べ政治が安定していたチリが、硝石生産をほぼ独占。
差を開けられるばかりのボリビアとペルーは、チリから硝石の権益を奪うべく秘密同盟を結び、硝石を生産するチリ企業の排斥に乗り出したのでした、
これに 危険を感じたチリ政府は、1879年2月14日硝石採掘都市アントファガスタを占領。
ここにチリVSボリビア・ペルー連合軍による戦いの火蓋が切って落とされたのでした。
この時、チリの人口230万人に対し、ボリビア・ペルーは倍以上の580万人。
当然陸軍の戦力は圧倒的で、一見して連合軍が圧倒的に優勢のように見えます。
ところが行ってみるとわかりますがアタカマ砂漠は東をアンデス山脈、西は太平洋に面するほとんど草木一本ない不毛の地。
当然陸上からの移動は困難で、しかも鉄道もない時代ですから、大軍ともなれば補給が続きません。
つまり連合軍の大軍が、利点となるどころか、むしろ足かせになるという特殊な戦場だったのです。
この為、両軍の雌雄を決する場は、必然的にアタカマ砂漠に面する太平洋となります。
これがこの戦争が『太平洋戦争』と呼ばれた理由な訳ですね。
☆ 新兵器!装甲艦VS装甲艦 ☆
さて、この時、チリとペルーにはとっておきの新兵器がありました。
それはヨーロッパでもようやく普及しはじめた新型戦艦『装甲艦』。
そして両軍の持つ装甲艦は2隻づつ(ボリビアはほとんど海軍力は皆無でした)でした。
チリの装甲艦は『コクラン』と『ブランコ・エンカラダ』、そしてペルーの装甲艦は『ワスカル』と『インディペンデンシア』。
この 僅か4隻の船に、この戦争の命運が委ねられたのです。
先に動いたのはペルーでした。
チリ艦隊が封鎖するイキケの港を虎の子の装甲艦2隻で強襲し、海上封鎖を突破しようと図ったのです。 しかしこのときペルー艦隊は、チリの旧式艦『エスメラルダ』を撃沈したものの、深追いしすぎて『インディペンデンシア』を失うという痛恨のミスを犯してしまいます。
結果的にはこのたった一つのミスが連合軍にとって致命傷となりました。
残った装甲艦『ワスカル』はゲリラ戦に徹し奮戦したものの、たった一隻では戦局を覆すことはできず、アンガスモス岬でチリ主力艦隊に捕捉され、拿捕されてしまったのです。
こうして制海権を巡る戦いは、チリの勝利に終わり、 ここからは制海権を握ったチリの一方的な戦いとなります。
海から自由自在に部隊を上陸させてくるチリ軍にボリビア・ペルー連合軍は対応できず、11月1日にはペルーのピサグワ港にペルー軍が上陸、5月にはボリビアのイロ港にもチリ軍2万2000が上陸します。
ボリビア軍は敗戦の責任を取って更迭されたダーサ大統領に変わって、カンペーロ新大統領自らが軍をひきいチリ軍との決戦に挑みましたが、大敗北を喫し、事実上ボリビア軍は壊滅。
ボリビアは戦線から脱落しました。
一方残ったペルーでは敗北の責任のなすり付けあいで政治が混乱し、この大事な時に一致団結してチリの攻勢に対応することができません。
この隙をついて、1880年11月チリ艦隊は一挙にペルーの首都リマの外港カヤオ港を占領。
ここに2万6000人の大軍を集め、翌81年1月遂にリマはチリ軍の前に陥落しました。
その後ペルーは2年にわたってチリ軍の占領下におかれましたが、1983年にようやく交渉がまとまり、84年にはボリビアとの間も決着。
ここに4年にわたった『太平洋戦争』は終結したのでした。
☆ 束の間の栄光と破壊的イノベーション ☆
太平洋戦争の結果、ボリビアは海に面した領土の全てを失い内陸国に転落しました。
又ペルーも南部のタカパカ県、アリカ県を失う一方、チリはアタカマ砂漠の硝石地帯の独占に成功、チリは南米3大国の一つに躍進することになったのです。
しかしそれは束の間の輝きでした。
1913年に破壊的なイノベーションである『空中窒素固定法』の実用化により、空気から無制限に窒素を生産することが可能になったのです。
これでチリの硝石は事実上その価値を失いました。
そしてそれは、チリの黄金期の終わりだけでなく、硝石によらず、無制限に火薬を生産し、無制限に戦争ができる時代が始まったことを意味していました。
第一次世界大戦が始まったのは、太平洋戦争の終結から、僅か30年後のことでした。
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