【コラム】幻の日本ーハワイ連邦

今日7月6日は、1887年にハワイで銃剣憲法が制定された日だそうです・・・・なんて言ってもなんだかよくわかりませんね。

ハワイが独立国だったことはご存知だと思いますが、そのハワイが事実上アメリカに乗っ取られたのが、この銃剣憲法の制定。

今日はそんなお話からしてみましょうか。


☆  亡国への道は、選挙制度から始まった ☆


さて、ハワイの歴史で一番の有名人といえばなんといっても、カメハメハ大王。 

南の島の大王は♪ その名も偉大なハメハメハ♪ という童謡の元ネタな人です。

 カメハメハ大王は元はハワイ島の酋長だったのですが、イギリスの援助でオアフ島を制圧、その後カウアイ島の酋長とも講和して全諸島を統一、1810年ハワイ王国を建国しました。

 大王は1819年に亡くなりましたが、その頃のハワイには次々と外国船が来航していました。

 彼らの目的は2つ、一つ目はキリスト教の布教、2つ目は捕鯨です。(ホエールウォッチに行かれたことがある方なら、ハワイが鯨の天国であることはよくご存知でしょう)

 捕鯨はともかく、なんといってもヤバいのがキリスト教。

 なにせキリスト教と布教と西欧の侵略がセットなのは一種の世界史のお約束。

 そして残念ながらハワイの運命もまた、この世界史のお約束からは逃れられなかったのです。 


 大王亡き後、息子リホリホが王朝を継承しましたが、政治の実権は摂政である大王の王妃カアアフマヌが握っていました。 

西欧文化、特にアメリカにシンパシーを抱いていたカアアフマヌは、自らキリスト教に改宗します。 そして伝統文化を重視する大王の政策を改めハワイ固有の制度や宗教を古く野蛮なものだとして禁止しキリスト教を国教として国民に押し付けたのです。 

アメリカからやって来た宣教師たちは、カアアフマヌに取り入り、フラダンスやサーフィンを禁止し、ハワイの“近代化”を進めていきました。 

リホリホは在位わずか5年でなくなり、その後わずか10歳の弟カウリケアオウリが継ぎましたが、1932年にカアアフマヌが亡くなるまで実質的な権力は彼女が握ったままでした。


 ハワイの近代化は日本の明治維新と似たところもありますが、決定的に違ったのが最初から外国人の国政への介入を許し、キリスト教とアメリカに強いシンパシーを持つカアアフマヌの下で自ら植民地化へのレールを引いたことです。

 亡国と言うのはいつの世も売国的政治家から始まるもの。

 1840年にハワイは憲法を制定し立憲君主国になりますが、それはまさにカアアフマヌの引いたレールの上のものでした。

 一番のミソは選挙権の制限です。 選挙権は3000ドル以上の財産か年収500ドル以上の市民に与えられることに成りましたが、実際にはこの条件該当する住民は白人系帰化人ばかりでした。

当然選挙で選ばれた政府はハワイ原住民のものではなく白人のものになり、内閣の大半を白人の閣僚が占めることになったのです。 


☆  12年でハワイの土地の75%の土地が白人のものに ☆


白人政府は早速ハワイの法制度を自らに都合の良いものに変え始めます。 

 1848年にはグレート・マヘレ法によって従来共有地とされてきた土地が私有化され、50年には外国人の土地領有が認められます。 

この結果多額の対外債務を抱えたハワイ王国は債務の弁済替わりに土地の切り売りを余儀なくされ、更に土地私有の概念さえなかった原住民たちはタダ同然の値段で外国人に土地をまき上げられてしまいました。

 白人所有の土地は次々と巨大なさとうきびプランテーションに代わり、結果として1862年までのわずか12年間の間に、なんと全ハワイの75%の土地が外国人の所有になってしまったのです。


 さすがにここまで来ると人のよいハワイの人たちもアメリカ人に騙されたことに気付き始めました。 1854年カウリケアオウリが亡くなった後、第四代国王に即位したアレキサンダー・リホリホはアメリカ人を閣僚から追放し、イギリスを頼ってアメリカに対抗しようとしました。

 しかしアレキサンダーはわずか9年で死去。

 あとを継いだ弟のロッド・カプイワも兄の政策を継承したもののこちらも5年で死んでしまい、カメハメハ王朝は5代で断絶してしまったのです。 

新たな王には王族の一人ルナリオが選ばれましたが、これも在位わずか2年で死去。

 このように歴代の王が短命だったことがハワイ亡国の原因の一つなのですが、これは白人が持ち込んだ病原体に、ハワイの人たちが免疫を持たなかったことが原因でした。

 実際カメハメハ大王時代には50万人ほどいたハワイ原住民はこのころには5万人までに減っていたと言われています。 


 7代目の王には選挙によってデービット・カラカウアが選ばれましたが、アメリカにとってはイギリス寄りになりつつあるハワイは癪の種でした。

 カラカウアに強烈な軍事的プレッシャーを掛ける一方、貿易上の優遇を与える通商互恵条約をちらつかして懐柔しようとしたのです。

確かにこの条約によりハワイはアメリカへの砂糖輸出で潤うことになりはしたのですが、結果として経済を再びアメリカに牛耳られることになりました。 

そしてうまい話には必ず裏があるもの。

条約の更新時にはその対価として真珠湾をアメリカに独占使用することを認めざるを得なくなってしまいました。


☆  日本ーハワイ連邦とアジア同盟 ☆


 さて、アメリカの圧力は日に日に強くなっていく中、カラカウア王はイギリスに変わる新たな同盟相手として有色人種唯一の独立国家日本に注目していました。 


 1881年、カラカウア王は突如世界一周の旅に出発します。 ハワイからサンフランシスコ、日本、中国、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪する大旅行です。

 一見王族の道楽に見えるこの世界旅行、実はアメリカの目をくらますためのカモフラージュでした。 王の真の狙いは明治天皇と会見し、日本とハワイでアジア連合を結成し欧米列強に対抗することだったのです。


 1881年3月10日の夜。カラカウア王は遂に秘密の計画を実行に移しました。 

 アメリカの随行員を首尾よくまいた彼は、突如一人の日本人通訳のみを連れて赤坂離宮に明治天皇を訪ねたのです。 

ノーアポの訪問に驚いた天皇でしたが、外国の国王を追い返す訳にも行かずとりあえず会談に臨む事にしました。

因にこれが日本の元首と外国の元首との史上初めての会談です。

 時に明治天皇29歳。まだ活力にあふれる青年君主でした。


 席上カラカウア王は明治天皇にこう訴えました。 

 『ハワイは主権を持つ独立国家です。その我が国に対し、アメリカが太平洋上の拠点にしようという野心を抱いています。 今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重する気持ちが微塵もありません。 

しかしアジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を深め無策です。 

この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列強諸国に対峙することが急務ではありませんか。

 日本の進歩には実に驚くべきものであります。 

アジア連合を起こすとすればその盟主には日本以外になく、天皇陛下こそが相応しい。 

日本は今、列強諸国に不平等条約の改正を認めさせようとして苦労していると聞きます。

 連合実現により容易にできるはずです。

どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主となっていただきたい。 そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸ししましょう。

私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカイウラニ王女を差し出します。

日本とハワイの絆の為、是非もらってもらいたい。

 私は貴国の良い返事を待ち続けます』


 この驚くべき提案は直ちに政府に伝えられました。

 しかし当時の日本はまだ明治維新が始まってわずかに14年、日清、日露の戦役は更に13年、23年後の出来事で到底列強を敵に回してハワイと手を結ぶことなど不可能でした。 

こうしてあまりに早すぎた日本ーハワイ連邦とアジア同盟の提案はうやむやとなり、ただ日本人のハワイ移民を推進することのみが合意されました。 

こうして失意のうちに日本を離れハワイに帰国したカラカウア王はその日の日記にこう記しています。 

「さようなら、日本よ・・・・うるわしき日本よ。できればここにずっと住んで、心やさしき親切な人々の住むこの国の移り変わりを見届けたい気がする。かなわぬことではあるが」


 一方カラカウア王の思わぬ行動アメリカが激怒したのは言うまでもありません。 

これ以後アメリカは露骨にハワイの内政に干渉を始めます。 

同時に現地のアメリカ人達は王制の打倒とアメリカへの併合を掲げて秘密裏に武装組織ハワイ同盟を結成しました。

 こうしてハワイ王国にとっての運命の日は刻一刻と近づきつつありました。

 

☆  奪われた楽園 ☆


1887年6月30日、遂にその日がやってきました。 

ハワイ同盟は近代兵器で武装した白人武装部隊”ホノルルライフルズ”を擁してクーデターを決行。

 王宮を占拠し、カラカウア王に銃を突きつけて反米派の首相の退陣と白人住民に有利な新憲法への署名を迫ったのです。 

この新憲法、通称ベイオネット憲法(銃剣憲法)によって王の権限は大幅に縮小され、事実上お飾りに等しい状態になります。 

又選挙権は白人系住民のみに認められ、人口の70%を占める原住民やアジア系移民は対象外とされました。 

こうして事実上その権力を奪われたカラカウア王は、その後アル中患者のレッテルを貼られてサンフランシスコへ移送され、1年後に寂しく客死したのです。 

日本訪問からわずか10年目のことでした。 


 1891年、8代目にして最後の王、リリウオカラニリ女王が即位しました。 


名曲アロハ・オエの作者としても知られる彼女はハワイの伝統と文化に強い誇りをもっていました、そして白人に奪われた国と伝統を取り戻そうと最後の努力をしたのです。

 彼女は銃剣によって押し付けられた憲法を改正して、ハワイ原住民に選挙権を与えるとともに、そもそも市民権を持っていない白人から選挙権を剥奪しようと国民に訴えました。 

これをうけ王宮前では女王を支持する数千人の住民が集まります。 

まさに女王の努力は実を結ぶかに見えました。

 しかしことここに至り遂に白人達はアメリカ本国に助けを求めたのです。 

アメリカのスティーブン公使は『血に飢えた淫乱な女王が再び専制政治の復活をもくろんでいる』と無茶苦茶な名目をでっち上げ真珠湾に停泊中の米軍艦ボストンに攻撃を命令。 

ボストンは王宮に標準を合わせ、160人もの海兵隊が上陸、ホノルルの町を占領しました。 

1893年1月17日。

海兵隊の支援を受けたアメリカ系住民達は、リリウオカラニリ女王他王族達を逮捕し、女王の退位と最高裁判事サンフォード・ドールを臨時代表とする新政府の樹立を宣言するに至ったのでした。 


☆  初めての日米対決の舞台はハワイだった ☆


このあからさまなアメリカの侵略の最中、ただ一人海外にいた王族がいました。 

彼女、カイウラニ王女は国際社会にアメリカの非道を訴え、同時にアメリカのクリーブランド大統領にスティーブン公使らの暴走と事実の究明を直訴したのです。 

グリーブランド大統領はまるで関東軍のごとき現地の住民と軍の侵略行為を快く思っておらず、王女に事実の究明をすることを約束します。 

こうしてクーデター後即座にアメリカへの併合を目論んでいたドールやスティーブンは窮地に追い込まれました。 しかもここでドールら暫定政府を更に驚かせる事態が発生したのです。 

なんとリリウオカラニリ女王の支援要請を受けていた日本が、東郷平八郎提督の下浪速、金剛の2隻の巡洋艦をハワイに派遣。 

ボストン号を牽制するように真珠湾に碇を下ろしたのです。 これにより暫定政府はハワイ住民に対して下手な軍事行動ができなくなってしまいました。 

日本が軍艦を派遣したのはハワイにいる日系人の保護の為でした。

 実は当時ハワイの日系移民は3万人を数え、ハワイ住民の40%を占めるまでになっていたのです。 本来日本とハワイがかわした条約では日系移民にも選挙権が与えられる事になっていましたが、銃剣憲法によって全く蚊帳の外におかえれていました。 

13年前、カラカウア王の要請に応えられなかった日本は、遅ればせながら自国民の安全と権利の為に行動する自信を持つようになっていたのです。 

日本がハワイの味方をしたことはハワイ住民を熱狂させ、当時子供にトーゴーという名前を付けたり、ナニワ(浪速)という単語を”ありがとう”という意味でつかったりしたといいます。 


 しかし全ては遅すぎました。 

1894年、アメリカの調査団はドールらの臨時政府を支持する報告書をまとめ、これを受けた臨時政府はハワイ人の反対運動の嵐の中、ハワイ共和国の樹立を宣言したのです。

 初代大統領には臨時政府の代表サンフォード・ドールが就任しました。 

名前から容易に想像がつくと思いますが、かの有名なパイナップルのドールは、ドール大統領の弟が創業した会社にあたります。 

こうしてハワイ王国はカメハメハ大王による建国から8代84年で、その歴史に幕を閉じたのでした。 

日米が初めて対峙した真珠湾の地が、再び日米の対決の場となったのは、その後46年後のことです。 



 ハワイ王国は何故滅んだのでしょうか。 

その過ちの根本は西洋への憧れと生来の人のよさから、あまりに簡単に外国人に選挙権を与え、国政への関与を許したことでした。 

ハワイの歴代の王達は、ある時期まで白人達も同じハワイの住民であり、一緒に共存できると信じていました。

 しかし彼らは忘れていました。白人達はハワイの文化も伝統にも何ら関心がなく、王室への尊敬は愚か国家への帰属意識さえなく、そのアイデンティティは最後までアメリカと共にあったことを。 


 さて人口減少社会を迎え、日本でも移民受け入れの議論が高まっています。

 しかし一方で移民の安易な国政への関与は最終的に亡国を招きかねないことも、ハワイの歴史は語っています。 

それでも、急速な人口減少を考えれば、何れにせよ私たちは遠からず移民の問題についても真剣に考えなければならなくなるでしょう。


果たして日本はハワイの教訓から何を学ぶべきなのでしょうか?