【コラム】文無しブサメン 遂に天下を獲る!

歴史上の偉人で人気のある人物のベスト10を作ると、必ず入ってくるのが織田信長、徳川家康、そして豊臣秀吉といった戦国武将。 

最近は織田信長が一番人気なのだそうですが、これは大河ドラマなどのTV番組の影響が大きいようで、昔は今ほど人気はなかったようです。 

一方戦前、戦後と一貫して根強い人気を誇るのが、太閤こと豊臣秀吉。

 勿論大阪での人気は、別格です。


 織田信長や徳川家康と違うのが、元々いいところの御曹司だった2人と違って、そこらの一介の農民出身でありながら、其の才覚だけで天下をとった日本史上たった1人の人物だという点。 

その点で古くから庶民の憧れの的、スーパーヒーローなわけですね。 


この手の裸一貫で天下を取る、という人物は世界の歴史を探してみても以外と少ないもので、最初は良くても最後に勝つのは大抵いい血筋の人間だったりするのが歴史の真理。

ほんと格差社会はいつの世も厳しいものですね。

 さて、お隣中国でもこの手の事情は一緒のようで、あれだけ長い歴史を持ちながら、本当の裸一貫から皇帝にまでのし上がった人物はたった2人しかいません。

 1人が漢を建国した劉邦、そしてもう1人が明の建国者朱元璋です。 

今日は、そんな世界中の非リア充の星、朱元璋のお話です。


☆ ブサメン、一文無しの天下人 ☆


朱元璋が生まれたのは元の末期1328年のことです。 

この頃にはかつて全世界の覇を唱えたモンゴル帝国も、もはやすっかり落ち目になりはて、元も皇位争いで13年の間に7人も皇帝が変わるという大混乱状態になっていました。

 朱元璋は8人兄弟の末っ子として生まれましたが、元朝末期の混乱で食べるものもなく親兄弟は次々と餓死、或いは疫病に倒れ、朱元璋ただひとり、辛うじて乞食坊主として生き残るという凄惨だったのです。

先ほど世界史上裸一貫で天下を取った人物はほとんどいない、と言いましたが、それでも多少のバックグラウンドはあるもので、ここまで悲惨な境遇から身を起したのはもしかしたら朱元璋ただ一人かもしれません。 


さて、彼が二十歳になった時、さしもの元も遂に終わりの始まりを迎えます。 

塩の密売商人だった方国珍という人が元朝に反旗を翻したのを切っ掛けに全土に反乱が波及したのです。 

なかでも白蓮教徒による反乱軍、紅巾軍の勢いは強く、一時教祖韓林児を皇帝に、宋を名乗り、首都大都(北京)に迫るほどでした。 

この時、朱元璋が身を寄せていた寺も紅巾軍によって焼きはらわれてしまい、これを機に朱元璋は逆に紅巾軍に加わることになったのだそうです。


 ところで朱元璋は正直言って醜男だったといわれています。

しかし世の中何が幸いするかわからないもの。

 それゆえにどんな悪そうなこともできそうな面構えだと任侠好きの親分の郭子興に気に入られ、十夫長として一隊を任されたのです。 

 ちなみにこの時後の皇后となる馬夫人を娶っているのですが、これまた馬という奴隷商人が郭子興に売り込んで、養女となった女性だという以外、名前さえもわかっていない女性(それゆえに歴史上馬皇后と呼ばれる)です。 


ところがこれが又よくできた賢妻で、日に影に朱元璋を支えます。

 公私ともに思わぬ良縁を得た朱元璋は、持ち前の頭の良さや面倒見の良さを武器に、瞬く間に組織の中で出世していったのでした。 


 1355年郭子興が病気で亡くなると、彼の3人の子供たちがその軍勢を継承したのですが、すぐに長男は元の軍勢に敗れて敗死してしまいます。

 兄弟間の内紛を恐れた朱元璋は残った2人の息子たちを謀殺し、まんまとその勢力を乗っ取ることに成功しました。 

彼はそのまま軍勢を率いて各地を転戦し、1356年南京を陥落させ、63年には同じ紅巾軍のライバル、陳友涼率いる六十万もの大艦隊をは陽湖で破って、紅巾全軍をその傘下に収めることに成功します。

 

紅巾軍総司令官となった朱元璋は、まもなく教祖の韓林児を南京に招きます。

 しかしその途中韓林児は事故死してしまうのです。 

実はこの事故自体朱元璋の仕組んだ罠でした。

 紅巾軍をその手中に収めた朱元璋にとってもはや白蓮教団は不要の存在になっていたのです。

 こうしてライバルを次々と打ち果たした朱元璋は、遂に1368年元旦、南京で即位し明を建国したのでした。


 ☆ コンプレックスと粛清と ☆ 


 明の勢いに押された元は、大都を捨ててモンゴル高原に逃げ去り、明は天下を統一しました。


 まさに彼にとって人生絶頂の時に違いありません。
それなのに、人間とはなんという皮肉なものなのでしょうか。 この頃から、朱元璋は少しずつ、自身の暗いコンプレックスに苛まれるようになったのです。 

 彼は自分が歴代の皇帝のように、高貴な血をひいているわけでもなく、科挙で選出された官僚や学者のような秀才でもなく、下賤の出で、無学の乞食坊主であり、そして多くの英雄のような容姿端麗でないことにひどいコンプレックスを抱いていました。 

そして皇帝となった朱元璋は、そのコンプレックスから消し去りたい過去を知っている、建国の功臣達を皆殺しにし、自分のコンプレックスを刺激する知識人を次々と抹殺するという恐ろしい行為に手を染めることになったのです。 


 最初にやり玉に挙がったのは左丞相として大きな権力を持っていた胡惟庸でした。

 彼が自分の地位を脅かすのではないかと恐れた朱元璋は、突如胡惟庸がモンゴルや日本と結んで背こうとしているという罪状をでっちあげて彼を処刑したのです。 

そればかりか朱元璋はその親族はもちろん、これに乗じて胡惟庸の一味だとして朱元璋の出身地である江南地方の富豪や地主を次々と捕らえては処刑したのです。

 最終的に『胡惟庸の獄』で処刑された人は1万5000人にも及びました。


 更に5年後、今でいえば国税庁長官に当たる戸部尚書の郭桓が、食料の横流しをしていたという疑義をかけられ、これをきっかけに次々と中央官庁の官僚が殺害されます。 

官僚といえば何につけても文章を作成する種族なわけですが、朱元璋は意図したのか、或いはそのコンプレックスからなのか、その性癖を粛正の手段として使いました。

 例えば『光天の下、天は聖人を生じ、世の為に則を作す』という文章に難癖をつけ、「光」とは朱元璋が昔、坊主だったことの暗喩で「則」は「賊」と同音だから朱元璋が紅巾軍として盗賊まがいのことをしていた過去を非難しているのだと決めつけて、その官僚を親族まで含めて皆殺しにしたのです。
これ以外にも「道」は「盗」と同音だからダメ、「生」も「僧」と音が違いからダメ、挙句の果てに「殊」という字は「歹」と「朱」に分けられるが、歹には「悪い」という意味があり、つまり「悪い朱」という意味だろうと難癖をつけられてこれも皆殺し。 

もちろんそのものずばり「禿」なんて字を使った日には、七族まで皆殺し決定です。

こうして最終的に当時六部といわれていた、中央官庁の長官すべてが殺されてしまい、その縁者や地方官僚など含めて数万もの知識人が処刑されてしまいました。 


朱元璋は錦衣衛というスパイ組織を作って常に周りを監視させていました。 

皆が疑心何議に囚われ、当時の役人は朝出所する際に、家族に別れの言葉を言ってから役所に向かい、無事自宅に戻れば家族で生還を祝ったといいます。 

この狂気を「文字の獄(もんじのごく)」といいます。 


 こうして多くの人たちを死に追いやった朱元璋の追及の手は、しかしまだやみません。

 次のターゲットは朱元璋の親友で、北伐軍を率いて元をモンゴル高原に追いやった建国第一の功臣、除達。
病死ともされていますが、皇帝より贈られたガチョウを食べた数日後に、なくなったと伝えられています。

 更に1390年、胡惟庸の獄が蒸し返され、明の筆頭功臣とされていた太師李善長が日本にクーデターの為の援軍を求めていたという容疑で死を命じられ、連座して建国の功臣19名とその一族、そしてその周辺など実に1万5000人もの人たちが殺されます。(李善長の獄) 

1393年には同じく再三モンゴル軍を破るなど軍功の高かった大将軍藍玉が謀反の疑いで処刑され、例によってその縁者ら2万人が殺されました。(藍玉の獄) 

胡惟庸の獄に始まり、5回にわたって実に10万人以上の人たちが殺されたこの一連の粛正事件を、歴史上一括して「胡藍の獄」といいます。 


 こうしてその成り上がり故の権力を奪われることへの恐怖に苛まれ、自らの生い立ち、顔かたちのコンプレックスのあまり「リア充」を憎み、かつての友も、仲間もだれも信用できなくなった朱元璋は、あまりに多くに人たちを殺しました。

 彼の虐殺は歴史的には幼い息子に皇位を継承させるためのものだったと理解されています。 

もちろんそういう面もあったでしょう。

しかし私にはそれだけだとは思えないのです。

 私は仕事を通じて多くの一代で成功した経営者を見てきましたが、成り上がりの成功者に潜む、ひそかなコンプレックスがこの一代の英雄を狂気に走らせたのではないかと思えてならないのです。


☆ 元非リア充が残した貧しい者のための国 ☆ 


 そんな中、唯一彼の心の支えだった馬皇后が51歳で病死しました。 

彼女は死にあたって頑なに医者に見せることを拒んだそうです。
その理由を尋ねられると「もし私が死んだら皇帝はその医者を殺すのでしょうから」と言ったそうです。 

もしかしたら彼女は自分の死と引き換えに、変わり果てた夫に諫言しようとしたのかもしれません。 実際、馬皇后がなくなった後、朱元璋は決して再婚することはなかったそうです。


こうして誰も信用できず、多くの功臣と有能な人材を殺しつくし、独りぼっちになってしまった朱元璋は、遂に中国の歴史上類を見ない超独裁体制を築きあげました。 

それは中央官庁を自身の直轄にし、自身がすべての行政文書に目を通し、すべてを一人で決済し、すべての権力を自分自身に集中させるという空前絶後の仕組みでした。 

記録によれば朱元璋は8日間で1666件の上奏文に目を通し、3391件の案件を処理したそうです。
彼は確かに人並み外れた優秀な人物であり、寝食を忘れて仕事に打ち込める仕事の鬼でした。


 しかも彼の統治はその残虐さと裏腹に、中小農民や零細商人を手厚く保護し、庶民の暮らしを守るもので、苦しい生活を強いられていた多くの庶民に歓迎されました。

 明の人口は飛躍的に増加し、国力は充実するとともに、農業生産は活発化して多くの国民が飢餓から開放されました。 

明が多くの優秀な人材を粛正したにもかかわらず、元と違って300年以上もの長きにわたって永らえたのは、もしかしたら自身が貧困の出の非リア充であった故に、貧しい人たちを守ろうとした朱元璋のバックグラウンドがあったからなのかもしれませんね。