【コラム】世界最初の生物兵器はペストだった!?

もう歴史コラムばっかりのこのブログですが、なんと昨日の『連載 トラブル王が語るM&A失敗談 ②トリクロロエチレンは死の香り』は実用記事初めてのスマッシュヒットとなりました。

なんか、失敗談がヒット記事というのはいまひとつ釈然としないものがなくはないですが、世の中そういうものということで、このシリーズは連載続行ということで。

もっとも続ければ続けるほど、恥を晒していくような気がしなくもありません。


さて、先日マラリアのお話(【コラム】イタリア式 『蛮族ホイホイ』)なんぞを書いたのですが、世の中には色々な方がいるもので、同じ中世ならマラリアよりペストの話が聞きたい!?という奇特なリクエストを受けたので、今日はご要望にお応えしてペストのお話などして見ましょう。


☆ 人類最初の生物兵器はモンゴルのものだった ☆


さて、その昔、中央アジアのクリミア半島にカッファ(現フォドシア)という町がありました。

 この街は世界で唯一イスラエル以外にユダヤ教を信奉した国家ハザール王国(アシュケナジム系ユダヤ人の源流といわれいます)の都市です。

ハザール自体はモンゴル帝国(キプチャク汗国)に滅ぼされてしまったのですが、海軍のないモンゴル軍は黒海に面したこの都市までは落とすことができず、イタリアのジェノバやベネチアとの貿易によって、黒海最大の貿易港として繁栄を続けていました。


しかし経済的繁栄というのは、えてして格好の標的になるもの。

当然この繁栄をモンゴル人が見過ごすはずはありませんでした。

 1346年、キプチャク汗国の皇帝ジャニベク・ハーン率いる大軍が、遂にカッファの街を包囲したのです。


 しかし海軍の無いモンゴルに対して、黒海の良港で海軍国ジェノバの支援も受けたカッファの街は容易には落ちませんでした。

 圧倒的なモンゴル軍を前にしても、数週間たっても一向に陥落の気配さえ見せなかったのです。

 カッファの予想外の抵抗に激怒したジャニベク・ハーンは、ことここにいたり悪魔のような計画を思いつきます。 

中央アジアの”風土病”で死んだ兵士を、カタパルトで弾丸代りにカッファの街に打ち込み、狭い町の中で病気を流行させて、町を滅ぼそうと考えたのです。 


これは歴史に残る病原菌を兵器として使用した最初の例だと言われています。


そして、この世界史上初の生物兵器の結果は想像以上のものでした。

 衛生施設が整っていなかったカッファの街ではモンゴル軍の思惑通りこの”風土病”が爆発的に流行し、ついには全市民の半分を死に至らしめたのです。 


生き残ったわずかなユダヤ人たちは、かろうじて船で街を脱出することに成功しました・・・ただし、この“風土病”の病原体をもったまま。  


☆ 人類最初のバイオハザード ☆


最初にこの風土病の保菌者たちがたどり着いたのは、地中海きっての大都市、コンスタンチノープル(今のイスタンブール)でした。

 人口100万人を誇るこの大都市は、カッファのユダヤ人避難民が到着した後、わずか2か月あまりでこの“風土病”の大流行により”人口の3分の1が失われたと言われています。

 次いで、カッファの避難民が到着したのが、シチリア、そしてサルジニア、そしてジェノバでした。 

最後の避難民達は、同じユダヤ人の居住区のあるマルセイユを目指しました。 


かくて悲劇の幕が切って落とされました。 

これらの都市から発生した今までヨーロッパ人が見たこともない新たな風土病 ・・・ 『ペスト』 ・・・ に対しては西欧の人たちは全く抗体を持っていなかったのです。

 わずか1年の間にこの伝染病は、地中海一帯をあたかも燎原の火のごとく覆い尽くしたのでした。


 やがて人々は奇妙なことに気がつきます。 

それは ペストが”ユダヤ人のいる場所のみ発生する” ということでした。 

しかも、ユダヤ人達は早くからこの病気への対応策をみつけ、感染した死体を適切に処理するなどしていたため、周りと比べると感染者自体が少なく、そのことも周囲の疑心を招く元になったのです。


 やがて、はるか黒海の都市からユダヤ商人達が伝染病を持ち込んだことなど知らない市民達の間では、ユダヤの長老の秘密会議がトレドで開かれ、非ユダヤ人を絶滅させるためユダヤ人が井戸に毒を投げ込んでいる、という噂が広まるようになりました。 


 かくて虐殺が始まりました。

 ナポリのユダヤ人居住区は怒り狂った市民に蹂躙され、虐殺された多くのユダヤ人達が地中海に投げ込まれました。 

その動きは各地のユダヤゲットーにも広がり、ユダヤ人たちはやむなく住居を捨てて他国へと避難するようになります。 

そして結果的にですが、そのことがペストをヨーロッパ全土に拡大させることにつながってしまったのです。 


最終的にペストによる死者は、当時の全ヨーロッパの人口の三分の一とも四分の一とも言われる2500万人に上りました。

 ヨーロッパがこの失った人口をもとに戻したのは、実に200年のちのことだったと言われています。


☆ ペストが変えたヨーロッパの歴史 ☆


 50年にわたるペストの流行は荘園農業を基本とするヨーロッパ社会の根本を覆す出来事となりました。

 皮肉なことですが、ペストになすすべがなかった教会の権威がガタ落ちになり、宗教に代わって科学的な考え方が台頭するようになったのです。

 このことは、ルネッサンスといわれる新たな黄金期をヨーロッパにもたらしました。 同時に 人口の減少によって”労働力=人間の価値があがり”、中世封建制から近代資本主義への道筋が開かれることになり この後のヨーロッパの世界制覇の伏線となります。


 一方あまりに巨大な犠牲は、古代から続くユダヤ人に対する恐れと蔑視を決定的なものにしました。 この影響は今に至るまで続いているのはご存知のとおりです。 

今にいたるといえば、ローマ人が大のお風呂好きだったにもかかわらず、現代のヨーロッパでお風呂にはいる習慣が薄いのは、ペストの伝染を恐れて入浴を禁止したことが現代につながっているのだといいます。 


実際のところ中世ヨーロッパのペストの大流行がどこからもたらされたのかは諸説があるのですが、もしこれが世界初の生物兵器の使用によるバイオハザードによるものだったとしたら、それはまさに人類の愚かさを象徴したものだったと言えるかもしれませんね。