【コラム】童謡「赤い靴の女の子」は、実は異人さんに連れて行かれていなかった⁉️

今は東京に住んでいますが、私は神奈川県の出身です。

神奈川の代表的なお祭りと言えば、何と言っても『横浜開港祭』

今年も今日から2日間行われます。


さて、横浜のシンボルと言えば、かつては山下公園の赤い靴の女の子像が定番でした。

以前ヨコハマカーニバルというお祭りがあったのですが、その中でハマこい踊りという踊りを踊るのですが、その中には必ず赤い靴の歌詞を入れなければいけないというルールがあるくらい、横浜、そして山下公園といば、赤い靴の女の子、というのが地元にとって当たり前だったりしたものです。


え、『赤い靴の女の子像』なんて知らないって?

それは困りましたね。これだから若い人はいけません。

でも、こんな童謡なら聞いたことがあるはずです。


『赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられて行っちゃった。

   横浜の波止場から汽船に乗って、異人さんにつれられて行っちゃった。』


なんとも子供心にトラウマになりそうな物寂しい童謡なのですが、この歌の主人公の像が『赤い靴の女の子像』です。


さて先ほど横浜のシンボルといったのですが、実は東京の麻布十番というところにも、なんと横浜と同じ、『赤い靴の女の子像』があります。


 よくよく見ると、『赤い靴の女の子』ではなく、きみちゃんの像と書いてあるようです。

 どうやら赤い靴の女の子の名前は本当はきみちゃんであり、立像の説明文では彼女はこの麻布十番で亡くなったようなのです。

異人さんにつれられて行っちゃったはずの赤い靴はいてた女の子。 

それがなぜ麻布で亡くなっていたのでしょうか? 


 ☆ 赤い靴の女の子は実在の人物だった ☆ 


1937年、北海道新聞に一通の投書が寄せられました。
当初の主は岡そのさんという女性。

その内容は自分の異父姉が実は『赤い靴はいてた女の子』なのだというものでした。

 この投書に興味をもった北海道テレビの記者、菊池寛(著名な作家とは別人)は5年の取材の末、それが事実だと確認すると、1978年『ドキュメント 赤い靴はいてた女の子』として発表、放映したのです。 

 それによると、以下の様な話だといいます。 


 赤い靴はいてた女の子の本名は『佐野きみ』 お母さんの名前を岩崎かよといいます。 

明治35年静岡に生まれたきみちゃんは私生児として母親の女で一本で育てられました。 

名前が違うのはそのためなのですが、まもなくお母さんの岩崎かよが社会主義者の鈴木志郎と結婚し、当時幸徳秋水らに主導された社会主義運動の一環として注目されていた北海道の平民農場に開拓民として入植することになったのです。 

 しかし開拓生活は厳しく、生活は困窮しついに夫妻は子供を手放さざるを得なくなります。 

かよはきみちゃんの義父、佐野家を頼り、その仲介で函館のアメリカ人宣教師チャールズ・ヒュイット夫妻の元へ養女として出すことになったのです。 

きみちゃんが満3歳になった時のことでした。


 その後鈴木家は農場を離れ、札幌に出て最初北鳴新報に、その後小樽の小樽日報社に就職します。

 そこで出会ったのが、後に赤い靴の歌詞を書くことになる作詞家の野口雨情だったのです。

 ちなみにこの時かの石川啄木も彼らの同僚だったそうです。 

 3人はいずれも社会主義思想にシンパシーを持っていたせいか、たいそう気もあったようで、その時かつて我が子を宣教師の元に養女に出さざるを得なかった苦しい時代の話を雨情に話しのです。 

ちなみに雨情と啄木はアカ度合いが過ぎたせいかその後社内で労働闘争を起こして、わずか3ヶ月で新聞社を追い出されています。


 後に雨情はこの時のことを思い出したのか、大正10年童謡『赤い靴』を発表。
翌年本居長世が曲をつけのが、皆さんご存知のあの名曲となったのです。

 一方鈴木志郎、かよ夫妻は後に自らもカトリックの宣教師となり、樺太で布教を続けたあと、昭和15年に函館に戻ります。 

夫妻には7人の子供がいましたが、幼いころ養女にだしたきみちゃんのことがよほど気になっていたのでしょう。 

子どもたちには異父の姉がいた事、そして赤い靴はいた女の子は、お前たちの姉のことを歌った歌なんだよと繰り返し語っていたということです。 

 かよは昭和23年、きみちゃんごめんね、という言葉を残して永眠しました。


 ☆ 実は赤い靴の女の子はどこにも行っていなかった ☆ 


 この時点では鈴木夫妻もそして野口雨情も、皆きみちゃんはヒュイット夫妻とともにアメリカに渡ったものだと思い込んでいたはずです。

 ところが菊池記者が調べあげた事実は全く異なったものだったのです。 


明治41年ヒューエット夫妻はアメリカへ帰国したのですが、その時きみちゃんの姿はそこにはありませんでした。

 彼女は重い結核の病に冒されており、すでに長い船旅に耐えられる状態ではなかったのです。 

夫婦が帰国するとき、きみちゃんは現在の麻布十番神社付近にあった鳥居坂教会付属孤児院に預けられました。 

しかし彼女の病状が回復することはなく、明治44年についにその短い生涯を終えたのでした。

 享年わずかに9歳だったそうです。 


つまり横浜にある赤い靴はいた女の子像は史実とは異なり、皆が思い込んでいた姿を描いたものだったわけです。 

ちなみに孤児院を運営していた鳥居坂教会は、当時東洋英和学院の付属教会で、同校のOGで以前朝の連続テレビ小説『花子とアン』の主人公として取り上げられた村岡花子さんは同時期にこの孤児院に給仕していたそうです。 

 もしかしたら彼女が世話をした子供の一人がきみちゃんだったのかもしれませんね。


 ☆ 赤い靴の女の子の正体はソ連だった!? ☆ 


 さて、ここまでは童謡の旋律と同じく悲しいお話なのですが、実はまだ話は終わりません。

 実は、のちにこの悲しい史実はTV局による捏造ではなかったのか、という疑惑が生まれてきたのです。 

 最初に疑問を呈したのは作家の阿井渉介でした。 

 阿井は1986年、きみちゃんが生まれた静岡市日本平に赤い靴をはいた女の子の像を建てた時の記念番組の脚本を依頼されました。 

快く低受けた阿井でしたが、いろいろ調べて行くうちに幾つかの不可解な点があることに気が付きました。 


 その最たるものは、残された戸籍でした。 

 きみちゃんは戸籍上2歳2ヶ月の時佐野家の養女となっています。

ところが3歳で養女となったはずのヒュイット夫妻の名前はどこにも出てこないのです。 

それどころかヒュイット夫妻の足跡には全くと言っていいほどきみちゃんの名前も、養女の影さえも出てこないのです。 

 つまりきみちゃんは実際には2歳の時からそのまま鳥居坂教会孤児院に預けられて、そこで生涯を終えた可能性が高いようだというのです。 


これは、一体どういうことなのでしょうか?

 阿井の推理はこうです。 

 童謡赤い靴は特定のモデルがいるわけではなく、子を失ったかよがその寂しさから思い込んでいただけのものだ。 

 更に阿井はこの歌の意味にも大胆な仮説で踏み込みます。

 赤い靴をはいた女の子とは、野口雨情が傾注し(後に絶望して転向した)社会主義的ユートピア運動の挫折を歌ったものなのだと。


 こうしたいろいろな推理がなされる背景として、色々と含むところのあるようにみえる野口雨情の作風も影響しています。 

 野口雨情は赤い靴以外にも『十五夜お月さん』『七つの子』『青い目の人形』『こがね虫』『証城寺のたぬき囃子』『しゃぼんだま』などともかく私達の馴染みの深い童謡をことごとく作詞したスーパ童謡作詞家なのですが、確かに親しみ易い詩のなかに、不思議な行間があるようにも感じます。


 例えば、『シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、壊れて消えた、風、風ふくな シャボン玉飛ばそ』というしゃぼんだまの歌詞。

 一説によれば、わずか一歳で急逝した雨情の長女を歌った歌だといいます。 

そう思って聞いみると、一見明るい子供の歌が、なんだかとても寂しい歌詞に見えるから不思議です。 


 更に、平成15年、この論争は予想外のところに飛び火します。 

 今度は歌手の永六輔が、野口雨情の長女から聞いた話として、『赤い靴とは、そのものずばりソ連の暗喩で、社会主義が消えていった様を歌ったものだ。雨情がこうした比喩を使わなければならなかったのは治安維持法による言論弾圧のためだった』と主張したのです。 

これに対してドラゴンクエストなどのゲーム音楽でも有名なすぎやまこういちが『雨情の名作を反日ソングのように曲解するのは故人に失礼だ』と反論。 

 音楽界の左右両巨頭の思わぬ場外乱闘に発展するという一幕がありました。 


 赤い靴はいてた女の子は実際の人物佐野きみをモデルにしたものだったのか、あるいは雨情自身が傾注した社会主義運動の晩鐘として書かれたものだったのか? 

 今となってはもう誰にもその真実はわかりません。

 なぜなら野口雨情自身は赤い靴の歌詞について生前何も語ることはなかったのですから。


 その意味がどうであれ、この名曲は今後も時を超えて何代にもわたって歌い継がれていくに違いありません。

 しかしたまには歌に込められた人間の心情や、その時代の背景に思いをはせてみるのもいいのではないでしょうか。