【コラム】マサダは二度と陥落しない

確かここは一応企業ブログとして始めたような気がするのですが、まあ日曜日ですし(関係ないけど)昨日のお話の続きでもしましょうか。


昨日のコラムは、アメリカの歴史上最初の対外戦争が”リビア”との戦争だったことが、アメリカにとってある種の幼児体験となって、知らず知らずのうちに、中東やイスラムへの見方の色眼鏡となって、その後の歴史の方向性につながっているのではないか、というお話でした。


中東といえば、もう一方の敵役が『イスラエル』

最近でこそ色々と複雑になっては来ましたが、根本的にこの地域の対立の根底には、『ユダヤ人VSパレスチナ人・アラブ人』という構造が根強くあるのは間違いありません。

そのユダヤ人の心奥深くに刻まれ、彼らのあり方を決定づけたとも言える一つの民族の物語。

『マサダの戦い』が今日のテーマです。


 ☆ ユダヤの反乱 ☆ 

 

1世紀の初め、パレスチナ地方はローマ帝国の支配下にありました。

 当時のローマ帝国は異文化、異宗教にも寛容で、概ねうまく属州を治めていたのですが、多神教をメインとする帝国にあって、厳格な一神教を奉じるユダヤ人との関係だけはあまりしっくりいっていませんでした。 

こうしてAD66年、ユダヤ総督フロリスがインフラ整備の為にエルサレム神殿の資金17タラント(日本円で1億~1億5000万円位)を流用したことを切っ掛けに、ユダヤ人のローマ帝国への反乱がはじまったのです。

 反乱の首謀者はすぐに捕まり、見せしめに十字架にかけられたのですが、これが完全に裏目に出てかえって反乱に火を注ぐ結果になり、あっという間にパレスチナ全土に反乱が拡大、エルサレムも反乱軍の手におちるありさまになってしまいました。


 驚いたフロリスは、上司のシリア総督ケスティウス=ガルスに助けを求めます。

ガルスはシリア駐留の第12軍団フルミナタをエルサレム奪還に向かわせたのですが、ベテホロンという場所で反乱軍に大敗。 

かえってほぼ全ユダヤ地域を失う羽目になってしまいました。


 事態を重く見たローマ皇帝ネロは、当代一の戦上手であるウェスパシアヌス将軍に、第5軍団マケドニカ、第15軍団アボリナリス、第10軍団フレテンシスという主力3個軍団6万の大軍を与え、ユダヤ鎮圧を命じます。

 息子のティトゥスとともにユダヤに赴いたウェスパシアヌスは、ユダヤ人の抵抗が頑強なのを見抜き、直接反乱軍最大の拠点エルサレムに向かうのではなく、周囲の街を一つ一つ落としてエルサレムを孤立させることにしました。 

そしてこの作戦は見事に的中。

 ローマ軍は68年にはエルサレムを除く、ユダヤほぼ全域を奪還し、今まさにエルサレムへの総攻撃をかける直前まできたのでした。


☆ 皇帝ネロの死と4皇帝の年 ☆ 

 

ところがこの時ローマでは予想外の事態が進行していました。 

AD68年6月9日元老院や軍の支持を失い、次々と部下に裏切られた皇帝ネロが自殺したのです。 

この結果帝国は大混乱に陥り、1年もの間に4人もの皇帝が擁立されるという異常事態になったのです。

歴史上この1年間を4皇帝の年と呼びます。


AD69年7月1日。

 3人目の皇帝ウィテッリウスがローマ市民の支持を得ていないと見たウェスパシアヌスは自ら皇帝に即位することを宣言し、兵力の半分を息子のティトゥスに預け、自らはウィテッリウスとの戦いに赴きます。 

ウェスパシアヌスの軍勢は各地でウィテッリウス軍を破り、12月20日、ウェスパシアヌスは遂に新たなローマ皇帝としてローマに凱旋したのでした。 


 一方シリア軍団をゆだねられたティトゥスは、父のローマ皇帝即位を見届けるとAD70年3月、エルサレムへの総攻撃を開始し、半年にわたる激しい戦闘の末、エルサレムを陥落させました。 

この時ローマに凱旋したティトゥスの為に作られたのが、現在でもローマに残る名高いティトゥスの凱旋門です。


 さて、こうしてローマは再び統一されましたが、しかし、ユダヤ人たちの反乱はまだ終わってはいませんでした。 


 ☆ マサダ要塞の攻防 ☆ 


 反乱軍の中でも特に過激だった熱心党といわれる人たちや避難民など967人が、エルアザル・ベン・ヤーイルに率いられ、マサダ要塞に立て篭もって抵抗を続けていたのです。

マサダ要塞はその昔ユダヤのヘロデ大王が夏の離宮として建造した要塞です。 

見渡す限り草木一本としてない荒涼とした不毛の大地にそびえたつ断崖の上にあり、そこに至る道はわずかに一本のみ。 

まさに天然の要害と呼べるような難攻不落の要塞でした。 


 マサダの掃討に派遣されたのは、ルキニウス・フラウィウス・シルバ将軍に率いられた第10軍団フレテンシス。

ユダヤ側の10倍以上に上る1万5000人の大軍です。 

しかもユダヤ側には多くの女性や子供もいましたから、実質的な兵力差は更に大きく、反乱は簡単に制圧できるだろうと誰もが考えました。


 ところが、追い詰められたユダヤ人たちの戦いぶりは、まさに戦史に残るほど壮絶なものでした。

 彼らは険しい地形を有効につかい、ローマの大軍を一歩も要塞に近づけさせなかったのです。 

遂にローマ軍は力攻めをあきらめ、マサダを包囲して、兵糧攻めに転換せざるを得なくなります。 

こうしてマサダ包囲から2年近くたちましたが、それでもなかなかマサダは落ちません。 

実はユダヤ人たちは、事前に大量の食糧をマサダに運び込んでおり、その量はあと7-8年は持ちこたえられるほどのものだったといいます。 


 業を煮やしたシルバは、今度はローマ軍得意の土木工事を活用することにしました。

 地形が厳しくて攻城兵器が使えないなら、一層のこと大量の土砂を積んで断崖の上まで新しく道を作ってしまい、そこから兵隊や攻城兵器を突入させたらいい、という訳です。

 早速ローマ軍は、構造上防御の弱い西側の突出部に向け、陣地から延々数百メートルもの土の傾斜路を築き、その傾斜路ぞいに攻城塔を断崖の上にあげ始めました。

 ユダヤ人の妨害にもかかわらず、工事は着々と進み、そして運命の日がやってきました。

 傾斜路を通して断崖上にあげられた攻城塔によって、遂にマサダの城門が破壊されたのです。

 さしもの要害もこうなれば万事休す。

 明日にでもローマ軍の総攻撃が始まることはだれの目にも明らかでした。


 ☆ マサダの壮絶な最期 ☆ 


もはやこれまでと見定めたベン・ヤーイルは残った全員を一か所に集め、こういいました。 

『敵の前で奴隷になるよりは、死を選ぼう。この世を後にして、自由の国で妻子と一緒に暮らそう。急ごうではないか! 我々を、その力の下におこうと望んでいる敵に、多くの喜びを与える代わりに、我々の死に対する驚きと、我々の勇気に対する賞賛を引き起こす様な、手本を見せてやろうではないか』 


 彼らは奴隷となることも、あるいは戦って殺されることも拒み、自ら死を選んだのです。

 しかしユダヤ教の教義では自殺は認められていません。 

そのため彼らは、まず自身の家族を殺し、その後に生き残った者の間でクジを引いて、残っている者達を殺す10人を選んだのでした。 

次に、10人はもう一度クジを引き残りの9人を殺す1人を決めたのです。 

そして、最後の1人だけが、自決しました。 

それは彼らの信じる神の教えに背くものをできる限り少なくするための、ギリギリの選択だったのです。


 翌日勝利を確信し、総攻撃を開始したローマ軍が見たのは、自ら死を選んだ900人余の遺体だけでした。


生き残ったのはわずかに女性2人、子供5人の7人。

 穴に隠れていて難を逃れたとも、後世に彼らの誇りを伝えるためあえて残されたとも言われています。 

 いずれにせよ、この戦いはローマ兵士に凄まじい精神的な影響を与えました。

 『敵が一掃されたというのに、彼らには如何なる喜びも湧いて来なかった。只、死者の決意の勇敢さと、この多くの者が死を持って示した、断固たる侮蔑とに、驚くばかりだった』 

ユダヤ戦記はこの時のローマ兵の茫然とした様をこのように伝えています。 


 こうしてユダヤは滅び、多くのユダヤ人達は故郷を捨て、或いは追われて流浪の民となりました。

 エルサレムの神殿を失ったユダヤ教はただユダヤ人だけに伝えられる秘儀となり、一方この時代までユダヤ教の一分派とみなされていたキリスト教が世界宗教へと飛躍していくことになります。 


 時は移って現代。

 マサダは現代のイスラエルの人たちにとって、大きな精神的礎というべき場所となっています。 

イスラエルの士官学校を卒業し、軍に正式に配属された若者たちは必ずこのマサダの丘に集められます。 

そして祖国が二度と滅ばないように、二度と民族が流浪の運命に合わないように、その決意を込めて、彼らは全員でこう斉唱するのです。


 『マサダは二度と陥落しない!』