【コラム】イースター島奇譚

イースター島や島に点在する謎の巨石像モアイの名を耳にしたことのある人は数多あれど、なかなか実物にお目にかかったことのある人は少ないだろうと思います。 

特に日本から見ると南米というのは、ただでさえ地球の裏側なのに、イースター島こと、パスクア島(パクスアとはスペイン語でイースターのこと)は、チリの首都サンティアゴから飛行機で更に5時間半もかかる絶海の孤島。 

特に今回の私の場合は、ロンドンまで12時間、そこからサンティアゴまで14時間、更にイースター島という経路を辿ったので、フライトだけで都合31時間30分もかかったことになります。 

アメリカ経由だと多少早く到着しますが、それでもとんでもなく遠い場所というのは確かですね。 


ということで、私自身も今回ようやくイースター島を訪れることができました。 

最早完全に企業ブログであることを忘れて、完全に趣味に走っている感もありますが、今日はこの謎に満ちた島について少々お話ししてみましょう。 


☆  モアイの誕生 ☆

 復活祭(イースター)の日に発見されたので、イースター島というのはよくありがちなトリビアですが、実際現地ではポリネシア語で大きな島を意味する『ラパ・ヌイ』と呼ばれています。 

そうです、この島はチリ領ですが、南米の人々ではなく、ポリネシアの人たちが住んでいるのです。 ポリネシア人は、はるか昔に漢民族の南下によって、中国大陸から玉突き状に移動した人たち、所謂オーストロネシア語族の末裔で、イースター島は中国大陸から数千年に渡って移動してきたオーストロネシア語族が最後にたどり着いた島だと考えられています。 

因みに一番近いタヒチからは約4000キロ離れており、島に伝わる伝説ではその一部マルケサス諸島から紀元400年頃ホトゥ・マトゥア王と2隻のカヌーとともに来島し、最初の王国を築いたそうです。 

先祖を祀る習慣を持っていたポリネシア人たちは、太平洋各地にアフと呼ばれる先祖の遺骨を納めた祭壇を作りましたが、絶海の孤島であるイースター島ではこの風習が独特の発展を遂げることになります。 

アフに遺骨を入れる代わりに先祖を模した石像を納めるようになったのです。 

これがモアイの原型だと考えられています。 最初は先祖に対する畏敬から始まったモアイですが、しかし人間のもつ名誉と権力への執着は、やがて、モアイの持つ意味を大きく変えてしまいました。 より大きく、より立派なモアイが次々と作られるに至り、モアイは先祖を祀る儀礼的なものから、部族の権威や栄光を象徴する存在へと変わっていったのです。 


☆  虚栄と名誉と権力と ☆

10世紀から15世紀にかけての500年間。

 イースター島の人々は、相手よりも大きな名誉と権力を誇示しようと、狂ったように、より大きな、より立派なモアイを作ろうと凌ぎを削るようになりました。 元々イースター島には金属も車輪も丈夫なロープも存在しませんでした。

 石器を使って石を削り、巨大なモアイを作り、しかも車輪もロクな道具も使わずにアフまで運ぶのは、いかにとてもつもない大事業だったかわかろうというものです。

 一般的な高さ4メートル、重さ12トンのモアイは、作るだけでも30人がかりで1年半かかったといいます。 大きなモアイは高さ10メートル、重さ74トンにも及び、一体作るのにどのくらいの年月と、更にアフに立像するためには、一体どれくらいの人力を要したのか想像もつきません。 

実際のところ、本当に彼らがどうやってこの小さな島で、これほど大量のモアイを作り、運び得たのかは、その多くは現代に至っても謎に包まれています。 

ともあれ、500年もの間、イースター島の人たちは立派なモアイを作ることだけに、執着し、897体ものモアイを島中に作りまくったのでした。


☆  耳短族の反乱とモアイ倒し戦争 ☆

 しかしモアイの時代はある日突然終わりを告げました。 イースター島に革命が起こったのです。 

イースター島には2つの部族連合と10の部族がいたと伝えられていますが、大きく分けると長い耳を持つ耳長族ハナウ・エエペと耳が短い耳短族ハナウ・モモコの2つの民族系に分けられていました。 耳長族が長らくこの島の支配民族で、耳短族は虐げられ、モアイ作りの労働を強制されていたのです。 

そういえばモアイ像は全てとても特徴的な長い耳を持っています。 これこそが、耳長族がこの島の主人だった証だといえるかもしれません。

 ともあれ耳短族は一斉蜂起し、耳長族を追い詰め、遂に最後の一人を残し、全員を焼き殺してしまいます。 


現代では革命が起こった背景には、苛烈な支配だけでなく、島を覆う深刻な食糧危機があったからだと考えられています。 

イースター島の人々はモアイを作ることに執着しすぎた結果、島中の木という木を切り倒してしまい、島の土地は痩せていき、遂に増えすぎた人口を支えられなくなったというのです。 

しかし革命は長耳族を倒すだけでは終わりませんでした。 

一旦戦いが始まると、食料を巡って戦いは耳短族の部族間に拡大し、更に象徴好きなイースター島らしく、お互いに相手の部族の象徴であるモアイを地面に倒し、霊力が籠っているとされた『目』を破壊するという、あたかもある種のゲームのようなモアイ倒し戦争『フリ・モアイ』へと発展していったのです。 


1750年頃から始まったモアイ倒し戦争により、ほとんど全てのモアイは倒され、破壊されました。 それは同時に500年に渡り、彼らが執念を込めて作り上げた文明を、自ら破壊することでもあったのです。

 この頃来航したヨーロッパ人の記録によれば、既に文化は石器時代レベルに退化しており、島には木は一本もなく、僅かなサツマイモが作られていただけだったと書かれています。


 モアイ倒し戦争の結末はそれだけにとどまらない悲惨なものでした。

 1860年頃、僅かに残った島の住民の大半は奴隷として奴隷商人たちに連れ去られ、かつて1万人以上いたと思われる島の住民は僅かに111人を残すのみとなってしまったのです。 

絶海の孤島イースター島に栄えた文明は、こうして滅亡しました。 


同時に、モアイの製法も運搬方法も、そして本当はなぜモアイを作ったのか、何故自分たちの手で破壊したのか、ロンゴロンゴと呼ばれる島独自の文字を読めるものがいなくなった今、全てが後世に謎として残されました。 

上記に挙げた物語も、後世に残された伝承の一つで、本当のところはもう誰にもわからないのです。

 

もしかしたらモアイは、小さな島にあって、人よりも勝りたい、あるいはせめてそう見せたいと願った人間の誰しもが持つ欲求、そして虚栄心をカタチにした、人類史上最高の偶像であったのかもしれませんね。